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スピリッツ
モノづくりは、心づくり
兵頭満昭が遺してくれたもの
モノ作りの原点をたどると、そこには「人が、人のために」どうしても作らなければならない様々な理由がある。言い換えれば、私たち人間の心から生まれた様々な要求や希望というようなものからモノ作りが始まる。そして、それらはすべて人の心から生まれるもの。つまり、心づくりから始まると言ってもいい。
SERVICE
奉仕の精神から
「人の喜び、人の幸せは、自分の喜びであり、自分の幸せにもなる」という信条で、人生を過ごし、すべての仕事に取り組んでいたのはHYODの創始者である兵頭満昭だ。また、まがりなりにも会社を起こしてからは自社製品の製作及び販売に際して「すべてのお客様に共通の満足(サービス)を提供するブランドが理想」という経営理念とも言うべき思いで一歩一歩着実に会社の運営を行っていた。
また、そうした理念をただ思っていただけではなく常日頃から先頭に立ってカラダと手を駆使して行動していた。ときには「愚直」なまでの姿勢でモノを作る仕事に向かっていた。没して10年になるけど、今でも「真面目で誠実な人柄」と言う人物評が関係者から語られている。
信条にしろ、理念にしても企業の経営者としての発想というより、むしろ「製作現場」に立っている工場責任者のメッセージ色が強い。それは、どちらかと言えば兵頭自身が少年時代から何かにつけ、手を動かして生活に役立ついろいろなモノを作り、そして生きるための様々な工夫を凝らしていた体験と深く関係している。
兵頭満昭が生まれて初めて「モノ作りに携わって喜びを感じた」のは母親の畑仕事を手伝っていた小学校の頃だった。生まれた時代が戦後間もなかった頃(昭和24年)だったから、日本中がまだまだ貧しかった時代である。したがって、日常の必要な野菜など自前で作るのはいたって当たり前な時代だった。とはいえ、手伝って出来上がった芋などを手にした時の感動は小学生ながらも大きかったに違いない。もちろん、母親と共に収穫の喜びを分かち合うことの喜びは格別なものだったことが容易に想像できる。
こうした行為は家族の一員としての務めといった意識とはいえ、時にはドロまみれになって手を動かして何かを作りあげていくというプロセスを子供ながらに体験し、そして、もちろん収穫の喜びを家族と一緒に味わう。そこには、自ずと「モノを作るというきわめて人間的な行いの原点」にある喜びの感覚が存在している。しかも、そうした行いから人々が味わう達成感や喜びあるいは快感といったものがさらなる行動へと結びついていくことも我々人間は太古の昔から身をもって教えられてきた。
どちらかと言えば、甘やかされた環境のなかで漠然とした少年時代を送ってきたわけではない。本来なら家の事情から中学校卒業後に就職するはずだった。本人も覚悟は出来ていた。しかし、成績が良いのだからという理由で中学校の先生から高校への進学を勧められた。
高校を卒業して、人生で最も多感な年頃に仕事を求めて故郷をあとにしている兵頭だけど、少年時代における様々な生活体験がはじめての仕事にも生かされていく。何よりも、仕事へ向かう姿勢が最初から「ハングリー」だった。どのような仕事に対しても探究と追及の手を惜しまなかった。物事の本質を理解しようとする姿勢はやはり、少年期における様々な苦労とそこでの子供ながらの対応をしてきた結果に生まれた不屈の感覚だった。
ひとつひとつの仕事における満足度(完成度)を求めていくと自然に自分のなかに満足感が広がっていき、その結果として周囲の人たちからも認められ、好印象で見られる。結果として人に喜ばれるというきわめて平和的なムードが知らず知らずのうちに生まれていた。それがすこぶる気持ち良かった。
そこにもその後に始まる兵頭満昭のモノ作りの原点があったと言っていい。つまり、一生懸命「こころを尽くして」仕事を行っていれば周囲の人が喜ぶ、また同じ精神で人のために役立つモノを作れば結果的に多くの人の喜びにつながることを身をもって知ったのである。
ON SITE
現場主義を貫く
モーターサイクルとライダーに出会ったことが兵頭満昭のモノ作り人生に火をつけた。とくにプロフェッショナルライダーとの出会いは、穏やかな性格の兵頭をして「心が湧き立つものを感じた」と言わせるほどに鮮烈だった。人生ではじめて味わう感覚だった。そして、大いなる刺激を受けて勇気とヤル気がふつふつと湧いてくるのを感じた。その結果として、モノ作りへの道を突き進むことになる。
摩訶不思議な性能・機能の工業製品=モーターサイクルというマシンを自在に操る人=ライダーとの出会いは、兵頭がそれまで生きてきた世界を一変させるほど衝撃的だった。しかし、だからといって物事に対する捉え方の基本姿勢が変わったわけではない。むしろ、いきがいを感じるテーマを「モノ作りの神様」がくれたと思えるほどに運命的なものを感じていたのである。
兵頭満昭が本格的なモーターサイクル(レーシングマシン)あるいはレーシングの世界を知ってから、彼らライダーの求めていることへの関心は自然と高くなっていった。彼らの求めにどこまで応じられるか、わずかな戸惑いはあったものの、モノ作りを考えはじめた兵頭を夢中にさせたのは、明らかにライダーという人たちの魅力だった。それも、プロからアマチュアまであらゆる層のライダーに対して尊敬の念に近い思いで接して感じられるものだった。ライダーと会うこと、そして会話することが兵頭の心を躍らせた。
思いあまってか、それとも研究心によるものか、それまで触ったこともなかった250ccのモーターサイクルにも乗り始めた。この時の体験はその後の考え方をより具体的、そして情熱的にモノ作りへと向かわせる結果となる。
兵頭をここまで踏み出させたのは「モーターサイクルとライダーの良い関係」をたくさん目にして、そして彼らライダーの多くがモーターサイクルやレーシングマシンをより上手く、速く、そして楽しむために飽くなき追及をしていたからだ。人間が、モーターサイクルと接することで、ここまで純粋な気持ちになれるのかと感心させられた。
いつの頃か、兵頭はサーキットへ足を運ぶことを日常的に行うようになっていった。直接現場でライダーたちが躍動する姿を自分の目で見、そして彼らの生の声を聴くことが当たり前のようになった。ライダーたちもそうして足を運んでくる兵頭を「用品メーカーの関係者というより“良き理解者”」というようなきわめてフレンドリーな心(スピリッツ)で受け入れるようになった。また、常にサーキットでの行動を共にしていた妻の多美江(現HYOD専務)共々若いライダーたちの良き相談相手となっていく。故加藤大治郎をはじめとして、加賀山 就臣、柳川 明、藤原 克昭、玉田 誠、芳賀 紀行、井筒 仁康、亀谷 長純といった多くのトップライダー達との深いつながりが生まれ、時には親代わりを求められるほどに彼らから信頼されていった。
プロのライダーにとって最も大事な「仕事の道具」はレーシングマシンだけれど、場合によってはそれ以上の「命を守る」という大事な道具と言えるのが「レーシングスーツ」だ。兵頭とその仲間が作るレーシングスーツは、機能性はもちろん、着用感にいたるまで隅々まで気を使った作りだった。いわゆるハード面における性能に加えて、命をかけて挑戦するライダーの精神面におけるサポートまでを考えていた。その結果、レザースーツを介して心が通じ合う結果ともなった。
常に高みを目指しつづけるライダーの熱い思いに応えられるモノとは?兵頭が様々なモノを作る時にまず思うことである。製作技術もさることながら「誠心誠意」に応える姿勢が何よりも出来上がったモノの良し悪しはともかく、製作者の心が伝わるものと信じてやまなかった。そうした「モノ作りに携わる者とライダーの関係」を大事にするために、現場に通いつづけた。
WORK
革へのプリント
“男の真の価値は、遺した仕事と生きざまで決まる”とはよく言われているけれど、兵頭満昭のモノ作り人生を振り返る時、どうしても「一生懸命な生きざま」だけが目立ってしまう。加えて、純粋さと誰に対しても同じような優しさや、時には「もてなし」にちかい心遣いがあった。仕事にかぎったことではなかったけれど、兵頭のもてなし振りには定評があった。それらはすべて優しい心から生まれたものである。いわゆる営業的な打算的な考えは微塵もなかった。そうした関係は往々にして長く続かないことが世間ではよくある。
また、ときには「愚直」と言えるモノ作りに臨んでいた姿勢は兵頭の生きざまを象徴するものである。とくにバイク用品の開発には手間暇をかけていた。ライダーたちの要求に応えようとすればするほど、製作の意欲がわいてきたという。
中でも、革(レザー)そのものへのプリントという課題は兵頭が最も精力を傾けた仕事だ。というのも、当時はまだ革へのプリントが技術的に確立してなかったからだけど、時代背景としては急務と言えるテーマだったからだ。
兵頭が革へのプリント技術の開発に着手しはじめた頃、世界グランプリやアメリカのAMAシリーズなどのモータースポーツシーンにスポンサーが本格的に参入し始め、国内でも、全日本や鈴鹿8耐などで世界の潮流に合わせるように様々なスポンサー企業が参入していた。その結果、マシンはもとよりライダーが着ているレザースーツにもスポンサーカラーやロゴマークが付けられるようになり、トップライダーが着ているレザースーツは広告媒体としてその効果が認められるようになった。
そうなると従来型のレザースーツだと革の切り替えだけでデザインしなければならないから、とてもスポンサーが満足する自由なデザインが施せない。さらに、致命的な欠陥としてスーツ自体の重量が増してしまう。そこで「革へのデザインプリント」が必要になったというわけだ。
革への印刷は「シルクスクリーン印刷」でやらなければならない。しかし、天然素材の革は同一コンディションではなく、どうしても個体差が生じてしまう。インクの剥離現象が起きたり、発色がどうしても良くない。兵頭が取り掛かった頃は問題が多すぎて誰も手を出す人がいなかった。
兵頭は、インクからシルクスクリーン(版)さらには印刷工程にいたるまであらゆる資材を見直し、時間をかけて何度も、何度も、テストを重ねた。かかった時間は相当なものだったけれど、その結果、ようやく鮮やかな発色でプリントされたレザースーツの完成にこぎつける。言葉にするとわずかなようだけど、根気と探究心が求められる仕事だった。もうダメかな、と思える場面が何度もあった。しかし「あきらめない」粘り強い姿勢が前人未踏だった分野の開拓を成し遂げたのである。
IDEA
アイディア・ノート
現場へ足を運んで得たいくつものアイディア、そして不可能に近かった革へのプリント技術を確立した兵頭が常日頃から思い浮かんだアイディアをメモしていた大学ノートが残っている。決して整理されたものではないけれど、いかにも思いついたらすぐその場でメモしていた緊張感が紙面から伝わってくる。
時には真夜中に思いつくこともあったらしい。
だから、枕元にはいつもメモするためのノートが置かれていたという。
モノ作りという行為が習慣化し、生活の一部になっていた兵頭はアイディアのメモをもとにすぐさま製作に移すということも忘れなかった。手を動かすことを少しも苦にしてなかったのはアイディアをカタチにするときのワクワクする感覚が好きだったからだ。時には「子供のように楽しんでいた」様子も周囲の人が目撃している。工場のベテラン職人が舌をまくほどの達者な手つきでミシンを操っていた兵頭の姿も決して珍しいものではなかったという。もちろん、経営者としての仕事をこなしながら、客の持ち込む製品の修理までも行っていたというから、本来そうした仕事が本当に好きだったと言える。そのミシンを自宅に持ち帰って兵頭だけの小さな「マイ工房」をつくってしまった。ヒマを見つけてはミシンを動かしていた。それも、楽しそうだったという。
ライダーにしてみれば、要望を聞き入れて即座に対応してくる兵頭の気持ちが何よりもうれしかった。もちろん、時間だけではない、ここでも誠実な対応ぶりが、互いの意思を通い合わせるもととなっていた。
とにかく、開発精神が旺盛だった兵頭が考え出したアイディアは現在のHYOD製品にも数多く採用されている。しかし、そうした製品のアイディアと同じように兵頭の遺したもので大きいのは「人」だった。詳しく言えば「人に対する好奇心だったり、人に対する限りない優しさ、思いやり」の精神だった。とくにプロのライダーたちと築いた信頼の絆は、兵頭の志を引き継いで今日を生きているHYODマンにとっても大きな財産となっている。
いろいろな組織やグループのリーダーとして相応しい人間にはある意味で自然に出来上がる「纏める力」「倦引する力」が備わっているものである。それに加えて性格や性質がリーダーとして相応しい人間は世に多い。
兵頭の場合は、一から組織作りを行った訳ではなかった。むしろ、兵頭の人間性(人としての信頼感)に惹かれるようにして同じ目的意識を持つ何人かの仲間が集まって自然にグループが形成されてきた。やがて企業組織へと発展したけれど、兵頭にとっては企業の規模は重要ではなかった。作り出す製品がユーザーの心に響いているか、そして満足出来るモノになっているか、ブランドイメージに隠されているメーカーの良心が最も大事だと思っていた。
人=客を無条件で大事にすることを前提にしたモノ作りこそが理想だった。
没後、あらためて兵頭満昭の生きてきた軌跡を辿ってみると「人に対しての心からのサービス精神」がいたるところに遺されていることに気付かされる。
「すべてのお客様に共通の満足(サービス)を提供するブランド」という満昭の残したブランド・コンセプトに基づいて、アマチュアライダーであろうとトップライダーであろうと、ユーザーのリクエストは「絶対に断るな」。これも、生前の満昭の口癖だった。そして、「ライダーは私たちのファミリー」だから、最大の誠意で願いを叶えてあげたい。それがHYODブランドの底辺に流れている切なる願いでもあった。
オリジナルブランドを立ち上げた時から、確かに二輪業界には80年代のような勢いは見られない。けれども、ライダーが存在し、今なおバイクやレースは多くの人たちに愛されている。だから、ライダーがいる限り、レースが続いている限りHYODのモノ作りへの情熱、製作意欲も衰えることはない。
今日、HYOD Productsの企業理念は「発見と創造」を掲げている。常に新しい創造を心がけるためには常日頃から物事の本質を見きわめる洞察眼と発見力を養っていなければならない。また、そうしたプロダクツスピリッツの基にはモーターサイクルの持つ限りないロマン性と優しい人間性が多くの人を感動させることも全ての「HYODマン」は心得ている。
「人の喜び、人の幸せ=自分の喜び、自分の幸せ」。
兵頭満昭が生前、心に秘めていた自身の人生から得た教訓だ。
すべては、人のためという信念に基づいた考えから生まれたものである。